生きにくさを考える。芸術家と芸術に親和性がある人は違う。

昔、「shine」という映画を観ました。

仲良しの牡牛座の友達に誘われて行きました。

その時はよくわからなかたのですが、今となっては人生で最も影響を受けた映画と言ってもいいかもしれません。

いいのか悪いのか、音楽の利用方法をあの映画から学んだように思います。

そして、心が弱ると主人公の演奏を聴きたくなります。

 

占いとかヒーリングとかやっている人って、ちょっと変わった人が多いですが、

私も相当変わってると思います(笑)

どう変わっていたのかがわかってきたのがつい最近ですが、

なぜこんなにズレてるんだろう?という生きづらさがとってもあって、

完全にイッてる人だった時期が数年あり、それを数年引きずり、人間に戻ったのは出産してからだと自覚しています^^

芸術家になりたかったというより、芸術の世界に親和性がある人でした。

そういう人ってどうしたらいいんだろう?って、当時は困っていた記憶があります。

生きづらさと孤独感を持ったまま生きるのは難しくって、現実を忘れる時間というのが必要でした。

本を読んだり親友と話す時間も楽しい時間ではありましたが、本読んでても、友達と話していても堪えられない時期もありました。

孤独感と自己否定から逃げるために、絵を描いていました。絵を描いている時は集中するから人間的な感性から離れていて、寂しくも恥ずかしくもありません。でも、絵の勉強をしていたため、そこに評価が伴っていて、自己否定のタネにもなりました。

ピアノは趣味だったので自由だったのです。そして、楽譜という答えがある。

楽譜は一つの物語であり、一人の人生であり、一つの映画でした。

音楽から経験したことのないような湖が見えたり、綺麗な庭や冷たい雪原、激しい恋や混乱など

豊かな感情を追体験しました。そして、実際演奏するときにそれらの空気感、例えば初夏の湖の反射を、恋のつらさを、一つの音で表現します。イメージの世界にある美しさや激しい世界観を、その瞬間を、どう音に落とし込むか。

そのためにどこまでテクニックを高めなければいけないのか。

そんなことを考えて集中する時間は至福でしかありません。

音楽は祈りであり素敵な次元へのチャネリングのようなものでした。

 

難しい曲は弾けないから楽譜を何度も読みます。読み込むと、その世界で生きてるような感覚にもなれたのです。

そしてその世界は学校や仕事やこの場所よりも、ずっと違和感がなくて心地よい世界だったのです。

 

ピアノがなくなったし、あれやらこれやらで辞めてしまったけれど、

ピアノがあれば無人島で一人で生活しても最高に幸せだと思っていたし、

今もそうかもしれないって思う時もあります。

音楽の中で生きるって、合法の麻薬みたいな感じで(笑)

現実からはなれて、幻想の世界で生きるてるような感覚になります。

 

一部の精神障害や引きこもり、悟り世代の無関心ぷりって、共感できる部分もいっぱいあって、

孤独感や自己否定と生きづらさを持ち合わせていることに起因しているんじゃなかなぁと感じています。

私はドロップアウトすることもなく人化できて、今は楽しくやっているれど、

抜け出すきっかけがつかめなかったり、現実世界で楽しむことが難しい人っていると思います。

 

例え高尚な心を持っていても、人間的な成長をしていないと社会のクズから抜け出せないってことは多々あります。

人間的な成長が自然にできるのが一般的だけど、無防備に純粋な心を持った人は人間らしい成長ができなくて、現実の世界ではポンコツだったりするから。必要のない自己否定でいっぱいになっていたり。

バランスってとっても大切だと思うのです。

ポンコツでも幸せならいいのかもしれないけど、どうせ生きてるなら現実の世界と関わって楽しむことは使命のようなものだと思うのです。

 

多分、無人島で毎日ピアノ弾いて生活したらすごい幸せだけど、

それじゃ人として生まれてきた意味があんまりないと思うんです。

「気持ちいいからずっと祈ってました 祈ってるうちに死んでました」みたいな(笑)

この銀河に太陽もあれば火星や海王星やたくさんの星があって、占星術で言えば10の星と12のサインがあるけれど、1つでも星がかけたら、この現実は機能しなくなるように、一つに偏っていては成長にも限界があります。

一つの人生で偏りがあってもいいけど、ずっと偏り続けることはできない仕組みになっている。

だから、それに本人が気づくまで同じ課題を持って転生し続ける。

…意味不明だったらごめんなさい。

でももし、身近にそんな風に生きづらそうな人がいたら、愛を持って認めて、叱ってあげてほしいなぁと思います。

幻想の世界は生きるために必要だけれど、やり過ぎて社会的廃人にならないためにも、人間のルールも学ぶ必要があると思います。そのためには芸術性を殺す必要もあるかもしれない。

その人にとって芸術が人生の目的ではないのなら、ある意味では芸術性と呼ばれるオリジナリティを

退屈で平凡な普通の人という枠に納める必要もあると思うんです。

ただしそれは「本人の持つ芸術性や個性を認めた上で」あることがとっても重要です。

社会性を身につけられると、ずっと楽になります。

個性的であるよりも、普通であることの方がずっと楽です。そして、支障なく生きられる基礎を自分の中に作ってから独自の表現や生き方を追求していっても、ぜんぜん遅くないと思うのです。

普通の生活ができると、自分自身の個性をもっと大切に尊く感じられるようになれます。

自分を認めるために、生きにくい自分を許し、普通になる努力をしてみると、道は開かれて行くんじゃないか?って、思ってみたりしています。

負い目なく社会と適応していくことはできるのです。

自分らしく生きるってとっても難しいこと、その前に苦しまずに生きるって難しい人もいると思いますが、無理な人なんていないと思います。

生きにくい人は確かにいる。そんなタイプでも生きててよかったって心から思って生きられると思ってます。

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