光と闇の話し。

闇の存在ってなんでしょうか?
とても気になっていて、光があるなら、やっぱり闇もあり…
その位置付けについてずっと探求しています。

今回はこれまで得た光と闇についての情報を書いてみます。

まず、この世界は行き着くところプラスとマイナスの組み合わせ、陰と陽でできていると思うのです。全ては表裏一体で、プラスだけでも、マイナスだけでも世界は成立しないのです。
だから、光があれば闇もあり、どちらも受け入れる必要があると思うのです。

プラスを光とするなら、マイナスは闇とします。
『光には受け入れる性質』が
『闇には排除する性質』があるようなのです。

だから、あくまでも光がベースでないとバランスが破綻してしまうのです。

光は闇も受け入れます。だから、程よく闇を取り込んでいられるのです。
ですが、闇は排除する性質があります。闇がベースにあると、光を排除してしまいます。結果的に闇一色となってしまうのです。

「光の中にある闇」と「闇の中にある光」では全く意味が異なるのです。

そして、これはあくまで私個人の意見、解釈の一つとして読んでいただきたいのですが、
光の象徴として木星を、闇の象徴として土星を例にあげると理解しやすいようなのです。

木星は母性を、土星は父性を
木星は受け入れ肯定する力を、土星は精査し制限する力を象徴します。

人は人としてこの地球で生きるために土星的側面を追求してきました。
戦い競い合い、奪い合って、ルールを押し付け合いました。
ですが、そのスタイルは過去のものとなる時代がやってきています。
力を求め、支配し合う時代から、分かち合い受け入れ合う時代へと変化していくでしょう。

それは私たち個人のあり方も同じです。

権力の追求、エゴイスティックな欲求は人を低次な欲でいっぱいにします。
一方で分かち合う心、許す心を保てていれば、欲に飢えることはもなく、心はいつも愛で保たれます。

では土星的側面は完全に消し去るべきなのでしょうか?
冒頭でも記述した通り、プラスとマイナスは表裏一体なのです。
裁く心があるから許す心があるのです。
地球には光も闇もどちらも存在します。個人にも光と闇、どちらも存在しているのです。

大切なのはベースが何であるかです。

闇は光を排除し、光の感受性を殺してしまうから。
だから、闇に飲まれた人は愛を感受できなくなってしまう。

一方で闇を徹底的に否定し、排除することも、光=愛とは言えないと私は思うのです。
(例を挙げるとすると、極端な健康志向など徹底した思想にも違和感を抱きます)

繰り返しにはなりますが、自分の中にある闇の部分、邪悪な部分を否定する必要はないのです。

時には汚い言葉で悪態ついてもいいんです。

人を憎むことがあってもいいんです。

欲にまみれたい気持ちを恥じることもないんです。

たまには不健全な楽しさを満喫してもいいと思います。
どんな感情も否定することはありません。

ただし、そこにはルールが必要です。

土星はその常識の範囲を強いる天体です。

人間は光の側面だけでなく、闇の側面をも持ち合わせているから。だからルールが必要なのです。
受け入れるだけでなく、制限することも大切なのです。

そして、ルールを守ればその範囲内で自由に闇を解放してあげていいのです。

ただし、闇に飲まれてはいけません。
愛をもってして闇を受け入れる。
それこそが光=愛を生きるということではないかと思うのです。

愛は愛だけでは成立できません。
誰の心にも愛があります。
誰の心にも闇があります。
愛の心で闇を受け入れありのままを生きること。
それこそが今この地球で愛を保ち続けるために大切なことなのではないかと思うのです。

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